2015年5月27日 星期三

言論の「手続き」について

    1943年7月に執り行われた「悪名高き」『近代の超克』座談会において、文学界同人の三好達治は、文部省の行う『記紀』等の古文釈義を評して:「あゝいふ書物は非常に科学的に詳しく論じてあるやうに見えて、実はちつとも科学的ではな」く、更に今の考え方は、「古典の中から日本精神を探し出して、さしづめこの時局に応用しようとする、さういう目の先の意図が非常に浅薄に見え透いてゐて、その為に古典の読み方、解釈の仕方が甚だ軽率で、不十分で、また時には非合理なんだ」と述べている。

この、三好の批判を検証するべく、それを同時代的事件に照らしておくと、津田左右吉が著した『古事記及日本書紀の研究』等が出版法に抵触し、出版者である岩波茂雄と共に起訴され有罪に問われている。(ちなみに津田・岩波の起訴は『近代の超克』座談会開催の二ヶ月前である。)津田への学問弾圧の細かい経緯はここでは割愛するが、彼の『上申書』を紐解くと、控訴事実に関する説明で、津田は「国体の尊厳」という辞句を執拗に並べ、いかにも歴史家らしく、その「時代」に迎合する自己を、意識している慎重さが伺えるのである。

仮装か偽装か、或いは迎合かはここでの問題ではない。あらゆる人・事・物が「時局に応用」されていった時代を省みつつ、そこに敢えて「知」の地位を与えるか与えないかは、もとよりそうした時代に生きていない、戦後という時代を生きている私たちの取る方法の中に、手続きを重視する精神が備わっているか否かに左右される。

現代の手続きを重視しない為政者が「ファシズムの時代」を如何に解釈しようとも、わたしたちは先に、この「ファシズムの時代」に生きた人々から、継承すべき思想を抜き取る視点と方法を手に入れておく必要がある。歴史認識問題を介し、現代の為政者をファシストだと批判するのは簡単である。問題は、そこにきちんと「手続き」が通過されているか否か、であるように思う。



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