さきほどの、津田左右吉の『上申書』について、そこに現れた一文を以って、「ファシズム」に対する思考の材料を提示しておくことにします。
・・・何ごとについてでも、或ることがらが考へられてゐる時、それが学問的研究であるかないかは、その考へかた、即ち方法、の如何によつてきまるのでありまして、或る問題を研究するに當つて、何事をその出發點とし、如何なる資料を如何に用ゐ、如何なる道すぢを經て、如何なる歸結に到達したか、といふことが大切なのであります。到達した歸結によし誤りが無いとしても、その道すぢが正しくなければ、それは学問的研究としては価値の無いものであります。
これは当時、津田が「犯した」出版法違反の控訴理由として、その『総論』に掲げた一説です。戦中の法廷に示された、このことばの意味とは、それがいわれなくてもわかっている、ごく当たり前なことであるが故に、価値を有し続けるという点にあります。
言い換えれば、翼賛の時代認識についても、到達する帰結が「正しい」ことを以って価値を得るわけでもない、という点に注意が必要です。「如何なる資料を如何に用ゐ、如何なる道すぢを經て、如何なる歸結に到達したか、といふ」プロセスへの省略が許されるような言説の空間には、いずれにしても価値を認めない、という視点が必要なのだということだと思います。
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