2015年5月28日 星期四

言論の手続きについて(補註)


わたしたちが向き合っている日本の現況について「近代の超克」を持ち出し、そして「翼賛の時代」への向き合い方を思考することに、些か反応しきれない方へのメッセージとして、ここで敢えて廣松涉著『「近代の超克」論』序論に引用された、松本健一氏のアプローチを見ておきますと:

・・・「戦前を日本ファシズムという概念で捉えることは、今日の常識ではあるけれど、当時ファシズムの非なることを言っていた者には、現在からすればファシズムの元凶とされる一派の青年将校をも含む」事実に留意を促し、「いまファシズムの危機を喋々したり、軍国主義の兆候を叫んだりしている手合いの多くは、一朝ことあればそのままの位相でファシズムの担い手になりかねない」事実を剔抉され、「それは本人たちによって当面ファシズムと呼ばれることはないだろう。それは新しい何かとして登場するだろう。歴史がまったく同じ状態を再現することは考えられないからである。ただ言えることは、その新しい何かはファシズムを否定するかたちで歴史の舞台に登場してくるだろう、ということだ。このとき、現在唱えられているファシズム否定論は、ほとんど役に立たないにちがいない。むしろこれは、これらのファシズム否定論の多くを自分の見方にひきいれつつ登場してくるはずである。」・・・

例えば、本国会の俎上に載っているような諸命題を、歴史認識問題に絡めつつ、まずファシズムや軍国主義といったコードを大前提に言論を展開する、その「手続き」の中に、上に引いたような、ファシズムを否定するかたちで歴史の舞台に登場してくる「新しい何か」が、既に出現しているのではないか、と思うわけです。この「新しい何か」とは、わたしたち「市民」をどういう位置へ措定し、「国家・民族」とどういう関係にあるのか・・・。とにかく、それを吟味することは必要ではないのでしょうか。



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