本論は、台湾と日本の油症事件を事例として、事件史の中に共有されている項目----「倫理」問題から、これまで「予防原則」という語りを支えてきた社会的機制が何であったかを探求してゆく。
知られるように、環境や消費者の保護、また被害者の支持や救済といった「善意」には、当たり前のように事・物や人に対してゼロリスクを求める志向が措定されている。しかし、この思考の合理性は、単に不完全な実定法によって逆規定されているに過ぎない、ということまでは殆ど知られていない。
問題は、国家が定める基準には、既に「明日」の安全な範囲が事前に告知されている(と認識されている)にもかかわらず、これらの基準は、「明日」になって事が発生してから其の合理性が試されるに過ぎない構図の上に発生にする。保護や支持、また救済を叫ぶ「モラリスト」は、只管「明日」の安全を求めることで、自らの「善意」を精査する作業から逃れている。結果、規格化されているのは「誰」なのか、という最も基本的な命題は置き去りにされている。
核心的な問題は、油症「被害者の支持」という語りの中で、誰も「優生」を掲げ、人の「素養」を高めることを理由に、人々に遺伝的・伝染的・精神的疾病の検査を促し、「異常」が認められれば受験者に中絶や避妊手術の必要を迫る(台湾の)『優生保健法』の法理を「問う」ことすらできない点に存在する。
この実定法に対する「善意」は、新しい思想と呼ばれる「予防原則」によって裏書されるが故に、被害者を支持するという符号にも、既に人の規格化という命題と、「倫理」を省察する契機は失われている。
*本稿は、「文化研究」(Router: A Journal of Cultural Studies)第10期 「思想論壇 : 医療倫理 / 生命倫理」 欄に掲載。
2010年12月23日 星期四
予防原則と被害者支持のパラドックス
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