「教育」が普遍的に施行される理由は、官吏制度の中にあって、正しい問いに正しい語意、そして正しい答えが予め準備され、その一切は壇上に立つ一人の教育者(機構組織人)によって管理、掌握されているからである。その結果、終始忘れ去られるのは「学び」の意味である。
子安宣邦氏著『思想家が読む論語:「学び」の復権』は、仁斎古義学の視点から諸『論語』註を紐解きつつ、「教育」の過程で、学ぼうとする者の動機を盲目的に該制度へと従属させているプリミティブな問題を指摘している。確かに、現代社会が重視して止まないのは、あの「梯子」(ディグリー)であって、「学び」の歴史、即ち自らの生と思想に充実と厚みを与える「学」歴なのではない。
この書を読めば、官僚制度に収斂された教育が、論語に言う如何に「師と成り得る」ものの導く「学び」の内容を持っていないのか、を知るはずである。『論語』読みの「『論語』知らず」にならないための必読の一冊をここに紹介する。
本稿は、「文化研究」(Router: A Journal of Cultural Studies)第10期 「書評」 欄に掲載。
先日ある学校の理科の先生と話をする機会があった。さまざまなトピックスを用いて科学に興味を
回覆刪除持ってもらう事、その科学を学ぶ意味を知ってもらうためにいろいろと授業を工夫されていることが
伺えた。何よりも先生自身がその科学が好きでたまらない様子だし、生徒からの思いがけないアイ
デアに驚き、感銘を受けることもあると先生も学ぶ姿勢を持っておられた。「学ぶ」こととは「知識を
増やすこと」「勉強する」ことではなく、未知の世界への扉を開け、道を切り開くことのできる知恵の
発見・体系化と他の人との知的な刺激によってアイデアや思考が深化・発展していける事を実感す
ることだと思う。先生は学期の最後にはテストをせずレポートを提出してもらうようにしているとおっ
しゃっておられた。レポートのテーマは先生が授業を通して発信していたメッセージは何だと思う
か?ということ。学びの意味を生徒に問うているのだと受け取った。