2010年4月29日 星期四

「等級鋏状差」が安全を担保するパラドックス


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  米や麦など、穀物の流通経路が複雑であり、いわゆる「偽装」の温床になっている事は一般に知られる通りである。しかし、それならば消費者はブレンド行為によって生じてくるとされる「等級鋏状差」(Gradscheren)が他方で「安全」を担保する、というパラドックスを知るべきであろう。なぜなら「安全」とは、ある基準から選別された実体的な銘柄や商品名によって保障されている概念なのではなく、選別されゆくものを再びブレンドしてゆく一連の「動作」によって担保されてゆく概念だからである。

  





     一年に一度収穫される米穀は、産地の倉庫から家庭の米櫃に至る全ての保管場所に於いて、時間の経過と共に漸変的な劣化を伴わせており、ブレンド行為によってモノのコンディションは維持され、またそれを向上させてゆく。等級を構成する要素は極めて複雑で、また多岐にわたるが、農産物は工業製品とは違い毎年収穫されるモノに対する判断基準も夫々異なるのだから、毎年の各要素に於ける最大、或いは最小限の各クオリティ項を鑑みつつブレンド行為を継続してゆけば、いわゆる「偽装」の温床となっている実体化された非ブレンド米に比して、「安全」の維持向上は可能となるはずである。

  例えば、昨年報じられた三笠フーズによる事故米穀不正規流通問題の主旨は、産地や用途カテゴリーの「偽装」を伴わせた残留農薬米とカビ米(世間はこれを「汚染米」と呼んだ)の横流しであるが、そもそも流通する全ての米に残留農薬や多種多様な菌の付着がないなどという事実は存在しない。また、全ての米に対してそれらの試験検査を行う事も不可能なのだから、消費者が何らかの信念に基づいて「国産」や、また同一銘柄のモノを購買し続け、そのまま盲目的に消費し続けることが「安全」であるはずがない。換言すれば、それは単なる「安心」への隷属行為にすぎないのである。

  仮に、疑わしきは毒であるという衛生学のセオリーを推し進めるならば、ではなぜ消費者保護を叫び、「消費者の不安」を代弁している御歴々諸氏は、消費者自らが家庭の米櫃に向き合いながら最も軽便にできる「危険」回避の方法とは、継続的に行うブレンド「行為」に他ならない、と言えなかったのか?根本的な問題は此処に存在している。「国産志向」(「国産」のブランド化)を推し進めることと、「食の安全」という標語を謳うことには、そもそも相容れない矛盾が存在しているのである。


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1 則留言:

  1. 昔ある清酒メーカーで「酒米は毎年作柄も異なり、取れる場所によって

    味も変わる。だから離れた農家と契約してその酒米をブレンドしてい

    る。毎年出来の違う米を一定の味の酒にしていくのが技だ」と聞いたこ

    とがある。農産物は生モノでありそれを使って作る製品の品質維持は難

    しいためブレンド技術は実に当たり前で合理的な事だと思う。逆に単一

    銘柄をずっと使い続ける事は品質維持が難しい事は容易にわかる。とこ

    ろが度重なる「食をめぐる事件」や「事故米」問題が顕在化し、「国

    産」「純」「100%」等という言葉が「安全」の代名詞的になってし

    まった事、「混ぜる」という行為自体がなんとなくネガティブなイメー

    ジになってしまった事が、当たり前で合理的な考えを「消費者を代弁す

    る方々」からも遠ざける一因になったのではないかと感ずる。「国産」

    「純」「100%」というレッテルは聞こえは良いが、必ずしも製品の

    安全を保障する言葉ではない。「安全」であるというブランドイメージ

    を消費者が勝手に抱いているに過ぎないのかもしれない。農薬や添加物

    を含め化学物質を使わざるを得ない現代にあっては、身勝手なブランド

    イメージを妄信するよりも自らの五感を信じ、氏の指摘する通り、ブレ

    ンド行為をすること(広くはいろいろな銘柄のものを摂取する事も含

    め)が個人的な「食の安全」策の一つになるのだと同感する。

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