2010年4月29日 星期四

格義是什麼?














道安弟子僧睿說:「格義迂而乖本,六家偏而未即」,試問何謂「格義」?為何「乖本」?又所指「六家」是那六家?能否指出其「偏

未即」之處?




        上述的引文是臺灣大學哲學系的「中國哲學史(二上)」課程裡,曾作為定期測驗(舉行日期:20011122日 )中的一個題目。以往將「格義」為專題的《論文》架構,多如同此測驗,皆從典籍出處入手,歸納出前人諸作研究者的定義後,再進而選定其辭彙概念應有的界定端。儘管文獻的整理作業有它本身的價值,然而本論並不打算再進行類似的作業。因為筆者在本論上所要探究的,並非「格義」一詞的字義解釋上的問題或其標準答案,而是欲依照著如上的測驗題目內容,試圖思索當敘事者論及;或非論及「格義」一詞之際,敘事者的腦海中早已預設的思維架構為何。在此我們可先稍加思考一下,「中國哲學史」課程之所以提出「何謂格義?」,是否同時亦提供著思索「外來」思想的事件性和認識「固有」思想的契機?若是,字義解釋本身早已反應出解釋者的思想活動,那麼我們是否該透過解釋的各種情況,而積極探究解釋者所屬的思路系統,才能在「格義」概念研究史上提供些許不同的視野



  如上に掲げた短文は、台湾大学哲学科の必修科目「中国哲学史(ニ上)2001年1122日に挙行」された「試験問題」の一つです。これまで、「格義」という概念を専門に扱った論文の問題構成法では、この設問の如く、ほぼ例外なく典籍を引っ張り出し、そして研究者がこれまで「格義」に対して発した「字義」を取捨選択し、そこから適合するとされる「定義」を確定してゆくというプロセスが辿られていました。本章は、勿論この種の解釈作業を踏襲するものではありません。本章の主旨は、このテストの出題者が「試験問題」作成時に如何なる構図を脳裏に描き、この典籍内容を「問題化」したか、という構成法そのものを考えてゆこうとするものです。「必修科目」という避けては通れない教育「制度」上の要求として、「格義」を問うこととは一体どういう知識を生産することなのでしょうか。それは即ち、「外来」思想の事件性と「固有」思想の系譜を、半強制的に「同時認識」させてゆく歴史認識のプロセスではなかったのでしょうか。だとすれば、この「字義」解釈の当否を問う中間テストには、予め出題者の「固有・外来」思想を識別する哲学の歴史(思想系譜)が織り込まれているはずです。この「試験問題」に措定された「模範解答」とはどういう内容なのか?「格義の問題化」で起きる歴史認識のパラドックスを、実証的に紐解いてゆきます。


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