三笠フーズの事故米穀転売問題で、「事故米」流通先リストが『新聞』紙上に公表された日の翌日(九月十七日)、『新聞』では:「同(農水)省はこれまで同意の得られた会社だけ公表していたが、食の安全を最優先し全てを公表した」(毎日)のだと報じられている。しかし同日に奈良県の米穀販売会社の社長が自殺したと報じられれば、その翌十八日には消費者相が:「風評被害を少しでも食い止めるために(流通先の)公表は必要だった」(産経)と釈明し、更にその翌十九日には、農水相が国会答弁で:「流通先業者のすべての名前を公表して、菓子メーカーなどに二次的被害が続出したことについて:「消費者の食の安全に対する不安を招いたことは責任を痛感しております」」(毎日)と語ったとされている。
ここには、ある一つの意図に貫かれた現代日本の姿が浮き彫りになっている。省察と思考、そして論理的対話のない毎日の連続は、「食の安全」や「消費者の不安」という制限なき用語の羅列に終始している。こういう空気の中に於いては、人々の精神は、もはやどこが起源で一体どこが帰結なのか分からない「単語」に共鳴しながら、その場の空気の赴くままへと処分されてゆく。発話者は自らが発している単語の意味が何であるのかすら思考できずにいて、その行為は社会的に因習化されながら、そうして因習化された社会的行為は、なんとなくその社会に舞い戻って更なる自明の前提へと据え置かれてゆく・・・。その結末とは、「食の安全」を優先すれば、「食の安全」に対する不安が招かれ、そして自殺者が出る・・・ということのようである。ひたすら執拗に流通先リストの公表を願っていた記事の書き手が、そういう念仏的行為への意味的省察を全く記事にはできない理由、それは意味的制限のない、こういう単語使用の記事に既に顕われている。
2009年11月12日 星期四
食の安全を優先すると、消費者に食の安全への不安を招く
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