2008年12月19日 星期五

省思「東亞的近代」的必要性 : 從子安宣邦的「來臺」意義談起

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本文試圖掌握子安宣老師邦200848,在交通大學召開「東亞世界與儒學」主題上所發表的〈省思東亞的近代〉講稿中始終被預設的四個範疇——歷史時間、世界史的哲學、作為方法的中國、方法的多元性,而積極尋找「東亞」概念的知識範圍。筆者相信,透過子安老師對於該「知識」的接近法,可以使我們理解到為何在群體研究上需要所謂的「知之為知之,不知為不知」的理由。其實子安老師對我們作出的提醒並不特殊,他不過是以一個知識活動的實然,作為普通的前提而已。換言之,我們在學術群體裡面對的最大問題,可以說是存在於群體研究中展現「不知為知」的顯在化過程




 
   
本稿は、200848に新竹の交通大学で行われた、子安宣邦先生の講演「東亞世界與儒學」内で用いられていた四つの範疇(即ち歴史時間、世界史の哲学、方法としての中国、方法の多元性)から、「東アジア」といった概念の「知識」範囲が何であるのかを探ろうとするものです。つまり、実体化されない「東アジア」を通じ、私たちが共同的な研究を行ってゆく上で、そこではなぜ「知之為知之,不知為不知 (これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ)」という概念が改めて重要となるのか、それを氏の知的接近法を通過させてみることによって、明らかにしようというのです。しかし、子安先生が私たちの前に提示していたこととは、別段特殊なことではなく、私たちの知識活動において前提となっている、ごく「当たり前」の事柄にすぎなかったのです。言い換えると、現代のアカデミズムが抱える最大の問題は、知らないことをいかにも知っているように論じるという、即ち知らないことまでも狭隘な組織的活動の支配下におこうとする、つまりは「東アジア」を、たった一つの「循環論(vicious circle)」」から消費してしまおうとする企てだったのです。



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