2014年6月3日 星期二

物化された被害者とダイオキシン

カネミ油症被害者支援センター(以下「YSC」)の前身が、焼却炉から排出されるダイオキシンを問題化する「環境保護」団体であったことは、カネミ油症という歴史的事件に向き合った人なら知っているはずである。しかし、そもそもダイオキシンという「モノ」に向き合っていたこの運動組織が、如何なる考えがあって油症「被害者」、つまり人を環境保護運動の対象にしてゆくのかについては、これまで考えられることはなかった。それを紐解くために、ここにYSCが編集・発行したある書物の『はじめに』を見ておくことにしよう。

私たちは、今、ダイオキシンで汚染された空気を毎日吸い続け、そして魚や野菜や牛乳を毎日食しています。その意味では、私たちは潜在的な「油症被害者」なのではないでしょうか。私たちはこのように考えたところから、日本最大のダイオキシン汚染被害と考えられるカネミ油症をあらためて取り上げなければ成らないと思いました。(中略)私たちは、大勢の方々に日本の油症被害の実態を知っていただき、各地でさまざな形で問題になってきたダイオキシン汚染問題の解決に役立てて、この地上からダイオキシン汚染をなくしていくためのきっかけになればという思いで、本書を世に問うことにしました。(止めよう!ダイオキシン汚染・関東ネットワーク『今なぜカネミ油症か』・2000)

まず注意すべきことは、ここには外延のはっきりしないコトバを媒介させて、「全ての人」が関心せざるを得ない状況が作り出されているという点である。YSCによれば、「汚染」された空気を毎日吸い、そうした食物を日々摂取しているわたしたちは、既に「潜在的な『油症被害者』」なのだそうである。しかし、運動を成り立たせている要因が、「全ての人」の共有する「モノ」であるとは一体どういうことなのか。仮に、わたしたち「全て」が、このモノの摂取者であった場合、社会運動という文脈において、「闘うべき敵手」は必然的に輪郭なき「私たち」ということばに埋没し、どのみち「敵手を確定する」ことは困難になるはずである。なるほど、だからこそ一般に共有されるべき、即ち五感に訴えかける、ある「かたち」が求められたのであった。「潜在的な『油症被害者』」をいくら用いても、運動の示す「フレーム」は構成されることはないのだから。
21世紀以降、そういう理由で油症被害者は顕在的な特徴を以って描写され、「この地上からダイオキシン汚染をなくしていくためのきっかけ」として、更には「ダイオキシン汚染問題の解決に役立」つ材料として、わたしたちの前に呼び出されていったのである。しかし、こうした観点から「日本の油症被害の実態」に接近すれば、否応なくテレビのドキュメンタリーや、雑誌等の媒体を用いることがより効果的だと看做されてゆくはずであり、被害者「像」は、より一層「観衆」に刺激を与える「被写体」へと実体化されゆくはずである。「各地でさまざな形で問題になってきたダイオキシン汚染問題の解決」に結びつけるために、「大勢の方々に日本の油症被害の実態を知っていただ」かなくてはならないという「ことば」は、こうして「市民権」を獲得していったのである。しかし、終始忘却されていることは、カネミ油症事件とダイオキシンとの関係である。更に言えば、被害者が「ダイオキシンによって」呼び出されていった、この倫理的な問題である。


参照:武田邦彦『誤報訂正:カネミ油症事件とダイオキシン』
https://www.youtube.com/watch?v=45opk1_RQhI

沒有留言:

張貼留言