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三笠フーズの流通先リストの公開一週間前、厚労省は食品安全委員会へアフラトキシンのヒトへの影響評価を諮問していました。つまり国はこの結果を受けて食品に付くカビ毒の「基準値」を設定する方向で検討していたのですが、此処で起きる疑問は、一方で農水省は三笠フーズのカビ米処置に対し、付着部の除去を理由に食品衛生法に該当しないと判断しておきながら、他方で政府保有の「事故米」全てを焼却処分にし、また同時に国はなぜ新たに「基準値」を設定しようとしていたのかです。本節では、「事故米」の転売がどういう情況下であれば食品衛生法に抵触するのかを問題にしようというのではありません。今回の一連の「事故米」報道を通じて得た知識には、これまで私たちが積み上げたはずの歴史的経験が、無視されていることを問題にしてゆきます。普段、私たちは実定法の細かな変遷情況を一々確認しながら社会生活を営んでいるわけではありません。人の生活とは、本来因習や常識との間に緊張感を以って営まれていたはずです。しかし国家が一義的に規定する「基準値」の有無だけを根拠とする遵法精神が一旦生活に深く食い込むようになると、「安全」は沈澱している因習や常識によって担保されなくなるのです。今回の「事故米」報道が現代社会の何を伝え、そして全量廃棄を選択する時代的契機が如何にして全てを相手にした戦中の歴史を髣髴させたかは、その結果として全てが不足した戦後への省察を通じ検証されるでしょう。言い換えれば、私たちの文明的基調を蹂躙して止まない現代の思考なき「遵法」精神を問題化する上でも、「復興」としての戦後は呼び出されるべき記憶になるのです。
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2009年10月5日 星期一
「事故米」報道は何を伝えたのか(5): 「混入率」論争の意義
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