昨年の九月から十月にかけて、各国の『新聞』紙面を賑わした食品等の「メラミン汚染」報道では、いわゆる「情報公開」や「意見交換」のあり方を根本的に考え直すための手掛かりが示されていました。そこで『「記者の目」とは何か』で用いた方法を更に発展させ、主として台湾と日本のステレオタイプの比較という視点から、メディア社会のあるべき姿を模索してゆきます。そこでまずもって「メラミン汚染」という同一の事象から、構造的な認識作業を通過させなくてはならない理由とは、即ち私たちは誰もが例外なくこの社会「制度」の内部に組み込まれているのであり、この日々接せざるを得ない社会的文脈を、「内部」の情報だけに頼って正当に評価してゆく事は困難であると考えられるからです。言い換えれば、今回の「メラミン汚染」のように、社会心理的な「影響」範囲が一行政区域をはるかに越えている場合、他の「制度」との比較から、自らの立っている位置を再確認できる条件が立ち現れているのだといえます。そこでは、いわゆる「国内」の狭隘な情報を「外部」との関係から意味づけておくことで、「汚染源」は同じでも「情報源」が異なれば「事件」の様相は全く変わってしまうのだ、という認識が可能となるのです。
本稿はまず上編において『新聞』紙上で言及された「基準値」の内実を介在させてゆき、「食の安全」という概念に向き合う際、まさに「エレメンタリー」に必要とされている「知識」は何であるのかを考えてゆきます。そして中編では「汚染源」とその周囲の「制度」の成立過程に向き合いながら、「基準値」設定の背後に存在する「力学」構造が何であるのかを紐解き、更に下編においては、普段「ポジティブ」な意味で言及される「グローバル・スタンダード」が、畢竟誰の為に必要とされているのかを考えてゆきます。
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